『スティッキーフィンガーズ』

現在連載中のオリジナル長編小説です!不定期更新ですが、『スティッキー・フィンガーズ』こちらより全編を500円でご購入頂けます。何卒よろしくお願い申し上げます。instagram @harauru

2011年11月23日水曜日

NOS マドレーヌちゃんのお友達たち





ダニエルちゃん




ニコルちゃん




ペピートくん




クラベル先生…


と、久しぶりにデッドストックのマドレーヌドールを出品いたしました。

今回のは全てEDEN社製です。

EDEN社とは初期にマドレーヌちゃんシリーズを作っていた会社で、その後、LEARNING CURVE社へと移行されます。

そのラーニングカーブ社の物は箱が青くなります。

EDENのは上のように緑ですね。大体2000年頃まで上の緑箱だったようです。

その後、青箱になるのですが、3-4年で生産中止、マダムアレクサンダー製へと移ります。

マダムアレクサンダーはアメリカでもっとも有名なドールカンパニーですが、ここが手がけたマドレーヌちゃんは、見事にアメリカンフェイスとなり、特に日本人のファンには受け入れられず、現在ファミリアで販売しているマドレーヌちゃんも昔のお顔を踏襲しております。

顔の表情をとってもそれぞれの会社によって異なっており、EDEN社のものは全体的にお顔が白いです。

ラーニングカーブのものになると、ちょっと赤っぽくて、顔の形も若干変わってきます。

個人的には、EDENのものが一番好きですね。



そして、EDENの中でも、初期の物は右手も左手もまっすぐで、物がつかめません。


いわゆる、ストレートハンドというやつですが、その後、小物が掴めないのに気づいたのか(?)丸くなります。

上の写真のダニエルちゃんがそうですね。

他の子たちは右手が丸くなっております。

こだわる方はレアものとして、ここまでこだわるようですが、私としては、物がつかめた方がいいようにも思えます。




ちょっと書き出すときりがないので、この続きはまた次回の機会に譲ることにします。




とりあえず、こちらで出品中!→こちら!


よろしくお願い致します┏(⊂:)゙ ペコッ



2011年11月14日月曜日

Seditionaries Parachute Shirt by A STORE ROBOT







ロボット復刻のセディショナリーズパラシュートシャツです。

名古屋のロボットに飾られていた奴だそうです。

写真では伝わりにくいですが、タイダイっぽい染めの風合いと、ところどころに散りばめられたダメージが、オリジナルさながらのオーラを放っており、むちゃくちゃかっこいいです。

マルコム&ヴィヴィアンの作り出したパンクムーブメント。

着るのを憚られる洋服たち。

ファッションの概念も音楽の概念も、みんな根底から覆してしまった1977年。

もう、パンクは死んだ、ロックは死んだと言われて久しいですが、

パンクが死のうがロックが死のうが生きようが、実はそんなことは関係なくって、どうだっていいんだ。

僕の中ではロックンロールは生きていて、未だに僕をゾクゾクさせてくれる。

こんな僕を肯定してくれる…。



気がするんだ。



そして、それも気のせいでも嘘でもどうでもいい。

僕は、そう思っているのだから。

そう、僕にとって、未だにロックンロールは、パンクロックは、真実なのだ。



オークションにて出品中→こちら!



2011年11月1日火曜日

のーふゅーちゃー in '69




「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」という若松孝二監督の映画を、たまたま観た。 

途中からだけど。 

あさま山荘事件てのは有名で、当然僕も知っていて、それに関する本や映画もいくつかみたことはあったのだが、どうやらちょっと勘違いしていたようだ。 

山荘に閉じこもって機動隊とやりあった有名なシーンというのは実はこの事件の最終局面で、むしろ凄惨で残酷なのはそこに至る何ヶ月かの山小屋での閉鎖的状況での軍事訓練を兼ねた共同生活。 

この映画では題名通り、その道程が詳しく描かれていた。 

「総括」と「自己批判」の名の下にエスカレートしていく私刑、集団暴力。 

誰もが違和感を感じているのに操られ、そこから抜け出せない共同幻想。 

警察から追われる恐怖、や、仲間内での不信感、焦り、色んな物がないまぜになってその幻想はふくらみ、どんどんどんどん暴走していく。 

何だかそんなひょっとしたら今までの人生、学校生活や社会生活において味わったことのあるような、そんなひしひしとした身近な恐怖がじりじりと伝わってきて、ちょっとどきどきしてしまった。 

非常に陰惨で残虐。簡単に人というか、仲間が殺されていく。 



そんなに昔のことじゃない。自分の親ぐらいの年代だ。自分の親が若いとき、日本ではそんなことが同時におこっていたのだ。 



革命、革命、というけれど、彼らは一体、何をしたかったのだろう。 



どうしてチェ・ゲバラやフィデル・カストロのように、共産主義革命を達成できなかったのだろう。 



どうして葉巻をくわえた軍服のゲバラはあんなに知的でかっこいいのに、地味な服装をした化粧気のない永田洋子はあんなにもブスで、森恒夫はとうてい革命家とは思えないほど知性の欠落したヒステリックな芋みたいな表情をしているのか。 



よくわからないが、何だか上のグロテスクな絵が、その本質を全て表現しているようで、思わず貼ってしまいました。 



でも、こんなことは多かれ少なかれ日本という村社会の中で、起こっている気がする。 
僕が感じた身近な恐怖とは、いわゆるそういうことだろう。 
集団の中で孤立することのできない日本人。 
正しいことを言う、勇気。 

果たして僕があの場所にいたならば、意義を唱えられたろうか。 

いや、絶対に無理だな。 

そして、順番に回ってくる死を、ひたすら怯えながら、ふるえて逃亡の機会をうかがい続けていたことだろう。