『スティッキーフィンガーズ』

現在連載中のオリジナル長編小説です!不定期更新ですが、『スティッキー・フィンガーズ』こちらより全編を500円でご購入頂けます。何卒よろしくお願い申し上げます。instagram @harauru

2012年9月16日日曜日



「大丈夫?」


 直規は、低く呻き声を上げながら智の方を振り返った。


「ああ、大丈夫だよ……、でも、これ、凄いわ、本当に……」


 と言った途端、直規は、路地の片隅に倒れ込むように駆け寄って壁に手をついて嘔吐した。喉元から込み上げてくるような苦しげな声を発しながら吐いている。その様子を見ていた心路も、ああ、俺も、と、ふらつきながら倒れ込むように道端で吐いた。

 静かな夜のプシュカルの町に、二人が反吐を吐く音だけが響いている。智は、大丈夫? と聞くよりほか、何もしようがなかった。薄暗いオレンジ色の電灯の灯る中、反吐を吐く二人の姿だけがぼんやりと浮かび上がっている。インドの路地の持つ独特の臭気が、闇の中、悶え苦しむ二人を包み込んでいた。その光景は、現実のものでも非現実のものでもなく、目の前に張り付けられた平面的な写真のように、ただ、智の眼前に広がっていた。

 ここはインドであるという疑いようのない事実、そしてそこで三人の日本人が日本語で会話しているという事実、更にドラッグで酩酊し、道端で嘔吐しているという事実、そのどれもが目の前で起きているまぎれもない事実に違いないのだが、智は、それらをどうしても現実のものとして捉えることができなかった。それは、夢を見ているようでもあった。どこか浮ついた現実だった。智は、そんな曖昧な心持ちで目の前で繰り広げられている「現実」を眺め続けた。


 部屋に帰ると、智は、ベッドに腰掛けて紙包みを広げた。そこには、確かに茶色い粉が包みこまれていた。先程の直規と心路の様子を思い出す。反吐を吐きながらも恍惚とした表情で快感に溺れている二人。一体彼らは、空ろな目で何を見ていたんだろう。ふらつきながら、どんな世界を歩いていたのか。ちょっと想像がつかなかった。

 ゾクゾクするような感覚を智は全身に感じていた。とても恐ろしいのだが、それ以上に惹きつけられている自分が恐かった。

 それが目の前にある。彼らのいたその世界へと続く階段は、智の前に施錠されずに開放されている。一人っきりで自由にできる。制約の無い自由というのは、恐怖に似ている。抑制を失った欲求は、自分をどんな世界に引きずり込むとも知れない。糸の切れた凧のように無限の大空へと解き放たれていくような恐ろしさ、果てしなく広がる底の見えない海の中に沈んでいくような怖さ、そんなのと似ている。

 智は、ハッと我に返って紙包みを丁寧に包み直すと、天井の板をずらしてそこへ隠した。そしてベッドに横になって、今日直規と心路に再会してから今までのことをゆっくりと思い返した。

 直規達の部屋でマリファナを吸ったこと、クリシュナ・ゲストハウスのシバやタンクトップのこと、初めて見るドラッグ、ブラウンシュガー、そしてそれに酔った人達、まだうっすらとマリファナの作用の残った頭で取り留めもなくそんなことを思い返した。

 しかし、それら全体の実像はまるではっきりとしなかった。それらの現象に何らかの必然性や意味を求めようとするのだが、その途端智の手からすり抜けて、曖昧で混沌とした闇の世界へと紛れ込んでしまう。映像はぼやけ、記憶は曖昧になっていく。イメージはどんどん混乱していく。

 運命は、様々な現象を雑然と智の前に繰り広げたまま、何ごとも語りかけない。智は、繋げることのできないパズルのパーツのようなそれらの現象の一つ一つを、何とか繋げようと必死に努力していた……。



 砂漠地帯の朝は眩しく乾燥している。日中の倒れるぐらいの日差しと暑さはまだ息をひそめており、真っ青な濃い空と眩しい光だけが町を覆っている。土地の人々は、そんな気候を良く知っていて、清々しい朝を最高の気分で迎えられるように町を造っている。建物を立てている。

 智の泊まっているゲストハウスは、二階建てで、小さな中庭のある小じんまりとした建物だった。土壁のような物で造られている外壁は、漆喰で塗ったように白く、砂漠の朝の透明な光を全身で跳ね返している。建物の屋上を歩くと、朝の日光で熱せられた地面が素足に心地良い。白い建物と濃い青空のコントラストがとても眩しい。

 プシュカルの町の全景をそこから見渡しながら、智は深く息を吸った。まだ太陽に熱せられる前の冷ややかな空気が体内を冷却する。静かな、落ち着いた気分になる。智は、両腕を広げて日光を全身に浴びた。


 部屋に戻ると、外の明るさの余韻で室内が少し暗く感じられる。そのせいで周りの景色がとてもクリアに見える。智は、おもむろにベッドの上に立ち上がって、天井裏に手を伸ばした。紙包みは確かにそこにあった。ベッドの上に座り直し、ゆっくりとそれを広げる。茶色い粉は円形に盛られている。智は、耳かきを取り出してその粉を少しすくうと、手鏡の上にそれを乗せた。もう、やると決めていた。心臓の鼓動が速くなっていくのが分かる。直規に貰った剃刀の刃で、その粉を細かく刻んだ。更にその砕いた粉で細く一本の筋を引いた。インドルピー札をくるくると筒状に丸め、片鼻にあてがって鏡の上に屈み込む。

 智は、今、そんな自分に酔っていた。今の自分の状況を、映画や小説のワンシーンになぞらえて、それら一連の行為を楽しんだ。そして一息ついて軽く目を閉じると、鏡の上の一本の筋を、なぞるようにゆっくりと吸い込んでいく。鼻の粘膜を粉が刺激する。粉は、溶けて、じわじわと智の体内へ入り込んでいく。血管を通って巡った血液が、脳内へとその成分を運搬する。それは、瞬間的に智の脳細胞を刺激した。一瞬景色が歪み、眩暈のようなものを感じると、智は、倒れ込むようにベッドの上に横になった。

 ぐるぐると回る天井のファンが智の視界を占領した。白い壁に白いファンがゆっくりと回っている。そしてその音が、エコーのように拡張されて智の聴覚を刺激する。智の感覚は、ほぼ全部、天井で回るファンによって埋め尽くされていた。今の智の世界には、それ以外の情報が入り込んでくる余地は全くない。しかし、頭の芯だけは妙に冴え渡っており、冷静さは保たれている。

 次第に体が重くなる。音がシャープに入り込んでくる。体がだんだん沈んでいく。ベッドは弾力性を失い、そのまま智を深く呑み込んでいく。そしてそれとは対照的に、意識は徐々に覚醒し、精神だけが軽く浮遊しているような感覚を、智は、今、味わっていた。

 朝の光が白い壁に反射して、部屋中を柔かな白色が包み込む。乾燥した冷たい空気が微かに肌を撫でていく。智は、知らない間に自分が少し微笑んでいることに気が付いた。ああ、この感覚をもっと味わいたい、もっともっと味わいたい、智はそう思った。心が軽くなり、あらゆる不安は解消された。ただこうして横たわってさえいれば幸せだった。何もいらない。怒りも悲しみもなく、ただ、穏やかな風に吹かれているような感覚で満たされていた。目を閉じ、そこに見える風景さえ見ていれば、そこから聞こえてくる音楽さえ聴いていれば、もうそれだけで十分だった。想像力が全てを支配していた。智は、神を意識した。神の国というものがもしあれば、実際もし本当にあるとするならば、そこに住む人々は、きっとこんな心持ちで生活していることだろう、優しく微笑みながら争いも無く、憎しみも無く、平和な世界で穏やかに生活していることだろう、智はそんな風に思った。

 ゆっくりとした呼吸で、取り留めもなく、そんなことをずっと考え続けていた。砂漠の朝日の輝く中、白い部屋で、ベッドの上に横たわって、天井で回るファンを、ただぼんやりと眺め続けていた。気が付くと、智は涙を流していた……。





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「何だよ、金、無いの?」


「ごめん……」


「マジかよ、どうすんだよ、俺そんなに持ってないぜ。一体幾らあるんだよ?」


「三百」


「三百だって? お前よくそんなんでここへ来たよな。ああ、ちくしょう、俺だって千五百しかないぜ、六百足りねぇよ…どうすんだよ」


「ごめん……」


 心路は俯いたまま動かない……。直規は、ハッと思いついたように智の方へ目を向けた。


「智、金持ってないか? 心路のせいで六百足んないんだよ。持ってたら貸してくれよ、きっと明日返すからさ、明日銀行に行けばすぐ返せるんだ」


「ごめん、直規、俺も三百ルピーぐらいしか持ってないんだ……」


 智は、そう言いながら、自分の方へ向けられた直規の目に全身の毛が逆立つような思いがした。

 それは明らかにいつもの直規の目ではなかった。黒々と見開かれた瞳には、何かに取り憑かれたかのような輝きがあった。それは、ブラウンシュガーの作用によるものなのか、はたまたそれへの執着によるものなのかは、はっきりと分からなかったが、その瞳は、直規の欲求の激しさを十全と物語っていた。


「そうか……、なら、仕方ないよな……」


 直規は、独り言のように少し震えながらそう呟くと、シバに向かって言った。


「シバ、何とか二グラムで千八百で駄目か? 金が足りないんだよ」


 それを聞いたシバは、顔をしかめながらこう言った。


「今さら何を言うんだ? 三グラム二千四百で話はついたじゃないか。それが限度だよ。もしどうしてもというのなら、最初の値段のグラムあたり千五百ということになる。それ以外は無理だね。それで駄目ならしょうがない、この話は無かったことにしよう。買い手はまだ他にもいるからな。君達だけじゃないんだ」


「ちょっと待ってくれよ、シバ、頼むよ、何とかしてくれ、俺達、今、金が無いんだよ……。あっ、そうだ! 分かった、明日金持ってくるからさ、それでどうだ? 明日になれば金ができるんだ」


 直規は、シバに頼み込むようにそう言った。


「いいや、駄目だ。第一、君達が戻って来る保証などどこにも無い。それにこんなものをいつまでも手元に置いておくのはリスクが大きすぎるからね。今君達が買わないんだったら、私は他に持って行く」


 その言葉を聞いた直規は、泣き出さんばかりの媚びた表情でシバを見上げた。シバは、静かに光る切れ長の目で直規のその様子を見下ろした。その視線には、どこか蔑んだ、嘲りの感情が込められているようだった。

 ずっと彼らのやり取りを横から眺めていた智は、ピリピリとした痺れるような緊張感を味わっていた。

 直規と心路の二人は、一体どんな感覚に溺れているのだろう。直規がシバにああも強く頼み込む程のブラウンシュガーというドラッグは、一体どんなものなんだろう? 智の胸の中でそんな思いが止まらなくなっていた。だんだんと、コントロールできなくなり始めていた。恐ろしいような……。惹きつけられるような……。 

 その時、電光のようにあるアイディアが智の脳裏に閃いた。智は、それをぽつりと呟くようにシバに言った。


「ドルキャッシュでもいいんだろ?」


 沈黙していたその場の空気が一瞬緊張した。直規は、ハッと智を見上げた。シバは、少し驚いたように智の方に目をやると、にっこりと笑ってこう答えた。


「もちろんだとも。ノープロブレム。ドルキャッシュなら持っているのかい? それならば問題は何もない」


「智、ドル持ってるのかよ? そうか、その手があったか、ごめんな、智、悪いけど貸して貰うぜ」


 直規は興奮してそう言うと、智はそれを制すように言った。


「俺も買うよ」


 少し呆然として直規は智を見返した。


「智、マジかよ、無理しなくていいんだぜ、金なら明日返すから無理に買わなくたって。とりあえず今貸しといてくれれば」


「いや、違うんだ、何となく興味が湧いて来たんだ。そしたらふとドルキャッシュ持ってること思い出してさ。だから、気にしなくていいんだ」


「そうか、助かったよ、智、ありがとう」


 表情を輝かせながら直規はそう言った。横で項垂れていた心路も、ほっとしたようにその様子を眺めた。


「幾ら払えばいいんだ?」


 智はシバに尋ねた。


「そうだな、グラム八百だから三十ドルぐらいかな、まあ、負けて二十五ドルでいいよ」


 智は、少し考えてからシバに向かって言った。


「違うだろう? 今、一ドル大体四十ルピーだよ。だから二十ドルだろ? せこい真似すんなよ」


 智がそう言うと、シバは、極まり悪そうに微笑んで肩をすくめた。


「ああ、グラムあたり二十ドルでいいよ、どうだ、これで商談成立だろう? 君達みんなが一グラムずつでちょうどいいじゃないか。むしろ三グラムあって良かったぐらいだ。これも何かの巡り合わせだよ。神の思し召しだ。神は、最初から君達が三人で来るのを分かっていらっしゃったのだ。ラッキーだよ、君達は。本当に」


 シバは金を受け取ると金額を確かめ、満足そうに微笑んだ。タンクトップは、シバの指示で包みの上のブラウンシュガーの山を三等分すると別々に包み直し、一人ずつ手渡した。直規と心路は、それを大事そうに仕舞い込むとシバとタンクトップを横目でちらと見て立ち上がり、危なっかしい足取りでふらつきながら部屋の外へ出た。智は、冷静にその様子を眺めながら彼らに続いた。部屋を出る時シバが、気を付けてな、マイフレンド、と声をかけてきたが誰も返事をしなかった。

 外へ出て、智は、自分の手の中にブラウンシュガーの包まれた白い紙包みがしっかりと握られているのを改めて確認した。気が付くと、その手は少し汗ばんでいた。


 三人は、ゆっくりと夜のプシュカルの町を歩いている。ヒンドゥー教にとって聖なるこの町は、やはりそれなりの聖地の匂いのようなものを放っている。霊的な雰囲気を醸しだしている。

 それは、例えばサドゥーと呼ばれる髪も髭も伸ばし放題の修行僧が町のあちこちに見受けられるからなのかも知れないし、直規達が泊まっているゲストハウスの近くにある湖に面した沐浴場で、朝日や夕日に向かって祈りを捧げる人達を日常的に垣間みることができるからなのかも知れない。

 やはり聖地と呼ばれる所にはそれなりに熱心な信者達が集まって来るので、何となくそれらの光景が心のどこかに引っかかっていて、知らない間に「聖地」というイメージが形づくられていくのだろう。プシュカルという町はそんな町のひとつだった。

 その、聖地プシュカルの町を、直規と心路はふらつきながら歩いていく。ブラウンシュガーの効き目がだんだん強くなってきたらしく、もう、二人とも目の焦点が定まっていない。智の方を向いても、果たしてどこを見ているのか良く分からないぐらいだ。智は、少し心配になって直規に尋ねた。


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「お前、ふざけんなよ、グラム千で話ついてんだろ? 千五百なんて出せるかよ」

 直規が強い口調でまくしたてると、窓際にもたれかかっていたタンクトップがサッと身を乗り出した。そして直規の鼻先でゆっくりと人差し指を左右に振りながらなだめるようにこう言った。

「落ち着きなよ、マイフレンド、これは本当に上物なんだ、三グラムにしたって何が変わるっていうんだ? 千ルピーぐらい、君達にとってはどうってことない額じゃないか。絶対に買っとくべきだよ」

 直規は、無言でタンクトップを一瞥すると、溜め息まじりに心路に言った。

「心路、どうするよ? 三グラムだってよ。話がややこしくなってる。長くかかりそうだぜ」

 少し考えてから心路は言った。

「じゃあ、三グラム買うとして、八百ぐらいまで負けさせるっていうのはどう? 俺と直規君で千二百ずつだったら金の方も何とかなるでしょ」

 二人が日本語で話していると、シバがその会話に割って入った。

「彼がいるじゃないか、彼と君達とでちょうど一グラムずつでいいじゃないか」

 智の方を見ながらシバはそう言った。

「智はやんないんだよ。それよりも、三グラム買ってやるからグラム七百にしろよ、だったら買ってやるよ」

 直規は、少し値段を下げて交渉を始めた。するとシバは、天を仰がんばかりに大袈裟に驚いてみせた。

「七百? 七百は無理だよ、だって三グラムで二千百ルピーだよ、本当ならグラム千五百で売ってるところをスペシャルプライスで千でいいって言ってるんだ、間違っちゃあいけない」 

「でも、俺らは二グラムって言ったんだ、そこを折れて三グラム買うって言ってんだぜ、せめて八百にしろよ、そうしたら三グラムで二千四百、悪くないじゃないか」

 しばらくそんな言い合いがシバと直規の間で続いた。しかしとうとうシバが折れたらしく、仕方ない、今回だけは特別に八百でいいよ、ということになった。
 さすがに直規も疲れた様子で、煙草を一本取り出すと溜め息まじりに火をつけた。そしてゆっくりと煙を吐き出しながらシバに向かってこう言った。

「シバ、試させてくれよ」

 シバは、直規の方を向いて少し考えてから、ああ、と言ってタンクトップに声をかけた。タンクトップはそれに応じて紙包みを直規に手渡した。
 心路、何か持ってるか?、と直規が尋ねると、心路は財布の中からクレジットカードを取り出した。直規は、心路の手からそれを受け取って、紙包みの上に盛られた薄い茶色の粉をカードの角で少しすくった。そしてくわえていた煙草を灰皿に置いて左手の中指で片鼻を押さえながら、カードの上の粉の小山をゆっくりともう一方の鼻孔に近付け、それを一息に吸い込んだ。

 直規の鼻の粘膜に異物が付着する。それは痛覚を刺激した。そしてじわじわと溶け始め、重力に従って喉の奥の方へと鼻腔を通って下りていく。嫌な苦い味が、直規の味覚を刺激する。

 直規は、しばらくの間、ムズムズする鼻を啜ったり少し指で擦ったりしながら効き目が表れるのを待った。その間に心路は、直規からカードを受け取ると粉をすくって同じように鼻から吸引した。そして鼻を擦りながら、シバに向かって、やる? という風にカードを差し出した。
 シバは、目を閉じゆっくりと首を振りながら、いいや、私はやらない、と胸の前で両手を広げた、と、その途端、直規が急に呻き声をあげた。

「うわっ、これ凄ぇ」

 直規は、俯きながら立っていたが、次第にゆっくりと膝に手を突き、そのまま床に座り込んだ。そして顔を上げると焦点の定まらない目で辺りを見回しながら、凄いわ、これ……、とぼんやりと呟いた。
 心路の方も効き目が表れてきたらしく、首を捻ったり瞬きをしたりと、急にそわそわし始めた。

「心路、どう、これ、凄くない?」

 直規が、空ろな目で心路を見ながらそう尋ねると、心路も、同じように、ああ、これ、いいよ、と嘆息した。

「今まで俺達がやってきたのと全然違うよ、全然違う……ああ、マジで凄いよ、これ……」

 二人は、しばらくそうやってひたすら悶え続けていた。
 その様子を見ていたシバは、満足そうにタンクトップと顔を見合わせながらこう言った。

「だから言ったじゃないか、スペシャルだって。嘘じゃなかっただろ? これだけ質のいいのはインドではとても珍しいんだ。君達はラッキーだよ、こんなのに巡り会えて。三グラムにしといて良かっただろう?」 

 直規は向こうの言いなりになったようで少し癪に障ったが、もうそんなことはどうでも良くなっていた。そんなことを考えること自体、下らなく思えてきた。

「ああ、いいよ、三グラム買うよ、グラム八百だから二千四百だな? それでいいんだろ?」

 シバは、目を閉じゆっくりと頷いた。
タンクトップは、腕組みをしながらシバの背後から直規と心路の様子をじっと眺めている。

「心路、金出せよ、千二百だ」

 直規がそう言うと、心路は、ああ、分かった、と頷いて財布の中から金を取り出そうとするのだが、財布の中身をしばらく探ると急に黙り込んでしまった。そして申し訳なさそうに直規に言った。

「直規君、ごめん、俺、両替えするの忘れてたみたい……」

 直規は、まさか、という表情で心路を見返した。


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2012年8月30日木曜日


 シバと呼ばれるその男は、小柄で、年はタンクトップよりも若そうな感じなのだが、どこか落ち着いた雰囲気を醸し出している。切れ長の目が静かに光っており、その瞳は常に遠くを見ているようだった。恐らくハイ・カーストの人間なのだろう。着ているものも小綺麗で、さっぱりとしている。 

 インドという国は、カースト制という名の階級制度が非常に細かく厳格に設定されており、ハイ・カーストとロー・カーストとの間の親密な交流というものはまずあり得ない。その為かカーストごとに醸し出している雰囲気のようなものが生まれ、しばらくインドを旅しているとそういったものは何となく肌で感じることができるようになる。シバの風采というのは、紛れもなくハイ・カーストのそれであった。表情に何か自信のようなものが満ちていた。

 彼は、心路を見ると柔らかく微笑んで、ハイ、と言った。心路も笑顔で、ハイ、と言ってそれに応じた。シバは、タンクトップとヒンドゥー語で二言三言、言葉を交わすと、待たせて悪かった、と言って紙包みをポンッとベッドの上に放り投げた。直規はそれを手に取るとシバに向かって、開けてもいいか、と尋ねた。シバは無言で首をかたむけた。

 直規が包みを開くと、薄い茶色の粉が、紙の折り目に沿って漢方薬か何かのようにこんもりと盛り上がっており、それは直規達が想像していたよりもかなり大量にあった。


「これ、一体何グラムあるんだ?」


 驚いて直規は尋ねた。


「三グラムだ」


 シバは答えた。それを聞いて直規は言葉を詰まらせた。


「はぁ、三グラム? 俺達は二グラムって言った筈だろ? そうだろ、心路」


 心路は黙って頷いた。するとシバは、ゆっくりとした口調でこう言った。

「これは本当にスペシャルスタッフなんだ。これだけのものはインドではまず手に入らない。ちょうど三グラム仕入れられたから、そうしたんだよ。むしろ喜ぶべきことではないか。それに二グラムも三グラムもそんなに変わらないだろう? 君達ジャパニーズは金を持っている。買わないと損だよ、絶対に」


 直規は、小さく溜め息をつくと、日本語で心路に言った。


「だから言ったんだよ、心路。こいつらこういう奴らなんだよ、 “ドジン ”め、絶対何かあるなって思ってたんだよ」


 心路は無言で直規から目を逸らした。


「いいか、シバ、俺らは二グラムって言ったんだから、二グラムしか買わない。いいな?」


 直規がそう言うと、シバは残念そうに首を振り、二グラムでは商売にならない、俺達は普段はもっと大きな仕事をしているんだ、本当ならこんな小さな仕事はしないというのを特別にやっているんだ、三グラム買えないというのならグラム千五百ルピーで買ってもらう、というようなことを言いだした。それを聞いて直規は、冗談じゃないとばかりに怒り始めた。





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 しばらくすると三人の目の前の扉の向こうから足音が近付いてきて、ガチャガチャと鍵を開ける音がした。そしてスーッと扉がゆっくり開くと、タンクトップシャツを着た筋肉質の若いインド人が姿を現し、入れ、と行って首を傾げた。髪は、ヘア・オイルでねっとりと撫でつけられている。

 直規は横目で彼を見ながら頷いて、心路に、こいつがシバか?、と日本語で尋ねた。心路は、いいや、と首を振ると、そのタンクトップ姿のインド人は、シバという名前で会話を察したらしく、シバはもうすぐ帰ってくるからちょっとこっちで待っててくれ、と三人を二階の部屋へと案内した。

 階段を上って連れて行かれたその部屋は先程その男が出てきた部屋で、どうも客室のようだった。ベッドが一つに木の扉のついた小さな窓が一つ、部屋の壁は外と同じく明るいベージュで塗られており、さらに壁一面にペンキか何かでカラフルな絵が描かれていた。それらはデフォルメされたヒンドゥーの神々だった。

 後はゆったりとした籐製の背もたれ椅子が一つと小さなテーブルが一つ、電気スタンドが一つ、その他には何もない。典型的な安宿の一部屋だ。様々な日用品が辺りに雑然と並べられているのを見ると、どうやらタンクトップはここで生活しているようだった。
 彼は、部屋に入るとベッドの上に腰掛けた。そしてそれに向かい合うように直規が籐椅子に座り、心路と智は座る所が無いので仕方なく、床に座った。

 タンクトップは煙草を取り出すと、マッチで火をつけ深々と煙を吸い込んだ。それに釣られて直規も煙草に火をつけた。


「ヒンドゥー・ゴッズ」


 壁に描かれた絵を眺めていた智を見て、インド人はそう言った。


「あなたが描いたの?」


 智がそう聞くと、そうだ、と言って彼は得意気に何度も頷いた。


「シバはいつ帰ってくるんだよ?」


 テーブルの上の灰皿を、床に座る心路の前に置きながら直規は尋ねた。心路は横目で直規に礼を言って、煙草に火をつけた。


「ああ、もう帰ってくる。今、ネタを取りに行ってるんだ。すぐ帰ってくるよ」


 タンクトップは二人のその様子を眺めながら、窓の外にせわしなく煙草の灰を落としている。


「ここで働いてるの?」


 智が彼に尋ねた。


「ああ、そうだ、シバと一緒にここで働いている」

「ここのゲストハウス、泊まってる人いる? 何だかシーンとしてるけど」

「いるよ、向こうの部屋に二組と下の部屋に一人。イギリス人の二人組とイスラエル人とフランス人のカップル、あとはドイツ人の五人かな」

「でも、誰もいないみたいだけど……」

「今、みんな出かけてるんだ」

「出かけるってどこへ? 町に出たってどこも閉まってるし……」

「知らないのか? 今日はパーティがあるんだよ」


 それを聞いた直規と心路は、その瞬間、顔を見合わせた。


「知ってた? 心路?」


 心路は、いいやというように首を振った。


「どこでだよ?」


 直規が尋ねた。


「町から少し行った所だ。よくパーティ会場になってる小高い丘のような所があって、そこでやってるんだよ」

「行ってみる? 直規君」


 心路がそう尋ねると、直規は、ああそうだな、帰りに行ってみようか、と言いながら体を屈めて、床の上に置かれた灰皿で煙草の火を揉み消した、と、その時、外で柵の開く音がするのが聞こえた。屈んだ姿勢のまま直規が顔を上げると、タンクトップは、窓から外を覗いて、シバだよ、帰ってきた、と言った。

 智は、少し緊張して直規達の方を振り返ると、二人はとても嬉しそうに微笑んでいた。わくわくしているようだった。やがて階段を上る音が聞こえてきて、シバが姿を現わした。
 




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2012年8月27日月曜日


 月が、三人の頭上でひっそりと輝いている。智はぼんやりとそれを眺めた。

 月は揺れているようだった。微妙に振動して光の波動を発しているのだ、と何となく智はそう思った。そして、その銀色の波動を自分は今全身に浴びている、と想像すると、今ここでこうして歩いているだけのことが凄く素晴らしいことのように思えてきて、自然と幸せな明るい気分になるのだった。そして全く異国の土地で、日本では全く見ず知らずだった日本人と偶然出会い、共に歩いているということが、まるっきり運命的で奇跡的な出来事に感じられ、智は妙に感動してしまうのだった。


「俺、直規と心路に出会えて良かったよ」


 二人に向かって唐突に智はそう言った。


「何だよ、突然」


 直規が智の方を向いて言った。


「だってこんなインドみたいな広い国でもう何回だっけ? 三回目? 三回も再会してだよ、今こうして歩いているのなんて本当に凄いことじゃない? 
 俺は今、運命を感じていたんだよ。だってお互い日本にいたら絶対会うことなんてなかっただろ? 住んでる場所も全然違う訳だし。なのに、旅っていう唯一共通する行為によって俺達は結び付けられている訳で、それって奇跡に近いことっていうか、もう奇跡じゃない? だからさ、こういうのって何かの縁だから大切にしなきゃって思ってたんだよ、どう、そう思わない?」

「智、お前もキマリ過ぎだよ、ちょっと落ち着けよ、何言ってるか分かんねぇよ」


 直規がそう言った。


「でも俺は、何となく智の言いたいこと、分かるような気がするな」


 微笑みながら心路はそう言った。しかし智は、二人の言うことにはあまり耳を傾けず、ひとり、満足そうに感慨に耽るのだった。
 



 三人は、もう町の入り口まで来ている。そこの細い裏通りを一本抜けると、明るい表通りに出る。しかし表通りといっても小さな町なので、三人並んで歩いていたらもう人とは擦れ違うことのできないぐらいの道幅だ。店も、ツーリスト向けの土産物屋がポツポツと開いているぐらいで、人通りもあまりない。


「夜は寂しい感じだね」


 智はぽつりとそう言った。


「ああ、昼間は人も多くて賑やかなんだけど、夜は店閉まるの早いしな。九時ぐらいには人気もなくて本当に静かだよ」


 直規が周りを見渡しながらそう言った。

 雑然とした町並は、他のインドの町の風景とあまり変わらない。ヒンドゥー語と英語の混ざった看板がそこいら中に見受けられ、町の様子をより雑然としたものに見せかけている。かなりごちゃごちゃとした町並みだ。ぽつん、ぽつん、と灯る街灯は、埃っぽい通りを余計に薄暗く、寂しく染めている。


「心路、どっちだっけ? クリシュナ・ゲストハウスって?」

「もう一本向こうの道を右に入るんだよ」


 指を差しながら心路はそう言った。


「良く分かるよなぁ。心路は本当にこういうの得意だよな」

「直規君が方向音痴なだけだよ」

「いや、お前が詳しすぎるんだって。だって一回歩いたらもう絶対その道忘れないじゃん」


 心路は、そんな直規の意見をよそにスタスタと歩いて行く。


「あ、ほら、ここを右に曲がるんだよ」


 心路がそう言った道というのは、殆ど人一人通るのがやっとというような細い道で、普通なら決して立ち入ることのないような所だった。


「何でこんな道覚えてんだよ」


 直規は、信じられない、という風にそう言った。


「見てみなよ、直規君、そこに書いてあるよ、ほら」


 そう言って心路が指したその先には、壁にペンキで小さく、クリシュナ・ゲストハウス、と矢印が書かれていた。


「分かんねぇよこんなの。こんなんで客来るのかよ? 絶対これ見て来る奴なんていないだろ?」

「だから、ここの奴らはツーリストにドラッグ捌いて儲けてるから、宿泊客なんて来なくたっていいんだよ。それに、放っといても買いに来た奴らがそのまま泊まっていったりするんだから」


 直規は、成る程な、という風に納得しながら道を曲がった。

 少し坂になったその道をちょっと行くと右手に低い門と柵があって、そこにアルファベットで「クリシュナ・ゲストハウス」と書かれていた。門の内側には小さな庭があり、L字型になった二階建ての建物は明るいベージュ色に塗られていて、見た感じは小ざっぱりとして、悪くはなかった。正面にいくつか見られる緑色の木の扉には番号が記されており、そこが宿泊用の部屋だということを表している。庭に生えている二本の木の間にはハンモックがあって、それが風で少し揺れていた。ひっそりとしていて人気はない。


「心路、本当にここなんだよな? 誰もいる気配がしないぞ」

「確かにここだよ。多分中にいるんじゃないのかな? この間来たときもこんな感じだったし」

「本当かよ? ところで今何時?」


 直規は心路にそう尋ねると、心路が、時計持ってない、という風に首を振ったので、すかさず智の方を振り返った。智はそれに気が付くと腕時計を見て、八時四十分、と言った。


「ちょっと遅くなったかな」

「大丈夫だよ」


 心路は気に留める様子もなくそう言うと、柵を開けてずかずかと中へ入っていった。そしてゲストハウスの入り口の扉の前まで来て、二三回軽くノックした。返事は無い。


「いないのかな?」


 少し緊張して智がそう言った。しかし扉の隙間から洩れてくる光で、中に灯りのついていることは分かる。


「いや、灯りがついているから多分いるとは思うんだけど……」


 そう言うと心路は、続けざまにまた何回かノックした。しかし何の応答もない。扉をノックする音が、静まり返った空間に響き渡るだけだった。


「やっぱり時間、間違えたんじゃねぇの?」


 直規が、責めるように心路にそう言った。


「いや、そんなことはないと思うよ、確かにあいつ八時って言ってたよ」

「じゃあ、俺らが遅かったからどっかに行っちまったっていうのか?」

「分かんないよ」


 二人の言い合いが発展しそうになるのを見かねて智が割って入った。


「ちょっと待ってよ、今そんな言い合いしたってしょうがないだろ?」


 二人は、智のその言葉に少し冷静になってお互いを見返した。


「どう、出直す?」


 と、智が言ったその時、二階の部屋の一つに灯りがついて誰かが出て来るのが見えた。暗くて良く分からないがインド人らしく、その男は、三人の様子を二階から眺めながら英語で、どうしたんだ、何か用か、と尋ねてきた。それに気付いた直規が、シバに会いに来たんだが、と答えると彼は、ああ分かったちょっとそこで待ってろ、と言って部屋の中に姿を消した。



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2012年8月26日日曜日



「マジで凄いね」

「だろ? あと、この匂いだよ、まるで薬品みたいな匂いがするんだぜ」


 パケットに入ったそれを、直規は智に手渡して、嗅いでみな、と目で合図をした。智は、パケットの口に鼻を近づけてその匂いを嗅いだ。


「凄い匂いだね。ツーンとくる匂いだ。何か、葉っぱのエキスを抽出して固めたみたいな感じだね」


 直規は、嬉しそうにそれをパケットから取り出すと、少しほぐして心路の直していたボングに詰め込み始めた。


「スカンクっていうんだぜ、これ」

「えっ、何が?」

「このクサの名前だよ。アムスのクサは品によってそれぞれ名前がついてんだよ」

「凄いところだね、アムステルダムっていう所は」

「何せマリファナ合法の国だからね、オランダは、ククク」

 声を押し殺しながら心路が笑った。


「ほら、智、いってみなよ。マジで凄ぇぜ。ボングでいったら一発だよ」

でも、もう出かけるんだろ?」

「こういうのはちょっとキマッてるぐらいがちょうどいいんだよ。気にすんなよ、ほら」


 智は少し躊躇したが、直規が強引に勧めてくるものだから断り切れなかった。
 心路がライターを手渡す。智はライターに火をつけ、その炎を、ゆっくりとスカンクに近付けていく。そして大きく息を吸い込むと、コポコポコポという激しい水泡の音とともに大量の煙が一気に智の肺に充満する。たまらずむせた。むせ返って息苦しくなると頭に血が昇り、顔が熱くなる。その瞬間、マリファナの作用が一気に智の脳を刺激する。


「どう、智、スカンクは?」

「………」


 智は咳が収まらず、まともに喋れない。


「ハハハ、ちょっと一気にいき過ぎた? じゃあ、俺もいっちゃおうかな」


 直規は、物凄い勢いで煙を吸い込むと、すぐさま心路にボングを手渡した。そして次の瞬間、直規の鼻と口から大量の煙が一気に吐き出された。そのまま直規は俯いて動かない。心路も、渡されたボングにスカンクを詰め込むと、直規と同じぐらいかそれ以上の勢いで吸い込んだ。部屋の中は、この数分で、煙によって瞬く間に埋め尽くされた。




 三人ともしばらく動くことのできない状態が続いた。あちこちから時折咳が発せられる以外は、部屋の外から聞こえるコオロギの鳴く声と、天井のファンの回る規則的な音の響くだけだった ———   


「直規君、そろそろ行かないと……」


 心路は、俯いている直規に向かってそう言った。ようやく直規は、落ち着いた、という風にゆっくりと顔を上げた。


「そうだな、行こうか、行かなきゃな……。しかしキマッたな、これは……」


 下を向いたまま智は動かない。


「おい、智、大丈夫か? サトシ?」


 智の肩を揺すりながら直規はそう言った。


「あ、ああ、そうだよ、行かなくちゃ、行くんだよな、ブラウンだっけ、そうだよ、買いに行くんだよ……」

「智、大丈夫かよ?」

「ああ、大丈夫、かなりキマッてるけど、歩けそうな気はするし……。多分……」

「ハハ、何とか大丈夫みたいだな。このクサ、トビが軽いからきっと歩き始めたらシャキシャキしてくるよ。よし、そろそろ行こうか」


 直規と心路は、手荷物をまとめて立ち上がり、出かける準備をし始めた。


「俺、絶対何か忘れ物しそうだわ……。もし何か忘れてたら置いておいてね」


 二人のその様子を見ながら智はそう言った。


「大丈夫だよ、明日にでも取りに来ればいいんだし、心配すんなよ」


 智は、ふらふらっと立ち上がると、空ろな目で自分のサンダルを拾い上げた。霞む視界の中で悪戦苦闘しながらも、何とかそれを履くことはできた。


「俺、目、ヤバくない? キマッてるって余裕で分かるでしょ」

「大丈夫だって、俺らみんな一緒だよ、分かんねえって。ほら、行こうぜ」


 直規は智の肩をポンッと叩いて外に出た。智も、ふらつきながら何とか直規について行った。
 



 外に出てみるともうすっかり日は落ち、辺りは真っ暗な闇に包まれていた。昼間の暑さを忘れさせるぐらい涼しくなってはいるのだが、未だ冷めやらぬ熱気は、あちこちに悶々と残されている。
 暗い池のほとりを歩いて行くと、その水面に、満月に近い丸い月が、ゆらゆらと揺れるように光っているのがとてもきれいだった。電灯の全くないこの夜道も、月明かりで何とか歩いて行ける程度には照らされている。


「月が、きれいだね」


 独り言のように智が呟いた。


「ああ、今日は眩しいぐらいに光ってる」


 足下を気にしながら直規はそう言った。辺りはとても静かで、三人の草を踏む音と虫の鳴き声の響くだけだった。三人とも無言で、皆、歩くことだけに集中していた。湿気た草の匂いが、やけに鼻につく。


「それにしてもよくこんな所にある宿を見つけたものだよね」


 智が言った。


「ああ、心路は、何故だか知らないけどこういうの得意だからな。いつも安くて穴場みたいな所を見つけてくるんだよ」

「一泊幾らぐらいなの?」

「幾らだっけ、心路?」


 心路は急に話しかけられたので、驚いてハッと顔を上げた。


「ハハハ、何ビビッてんだよ」

「いや、歩くのにハマッててさ、ずっと足下見てたら足音が心地良くって、それ聞くのに集中してたから……」

「お前キマリ過ぎなんだよ。俺らの泊まってるゲストハウスの話だよ、幾らだっけ?」

「百ルピーぐらいだったんじゃないかな、多分?」

「二人で?」


 心路がそう答えると、智は驚いて聞き返した。


「ああ、確かそうだったと思うよ」

「俺の泊まってる所なんて百二十ルピーもするよ。もちろん一人でだよ」

「町の真中だったらそれぐらいはするよ。ここはちょっと外れになるからさ」


 智はうらやましそうに頷いた。


「普通はこんなところ誰も来ないって。心路だけだよ、こんな宿探せるの」


 直規がそう言うと、心路は少し照れたように微笑みを浮かべた。



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2012年8月25日土曜日



「智はこれからどうするの?」

「え、ああ、飯喰いにいくよ」

「ハハハ、違うよ、この町の後だよ、旅の話」

「ああ、そうか、そうだね、ジャイサルメールに行こうと思う。ラジャスターンの町をいくつか回って、それからデリーへ行くつもり」

「俺らもこれからデリーに向かうつもりだよ、その後マナリーに行く。もうすぐシーズンだしね。まあ、まだ当分ここにいるだろうけど」


 欠伸をしながら心路が横から口を挟んだ。直規はその様子をちらっと横目で流し見た。


「智はずっと旅してるんだよな。もうどれぐらいになるんだっけ?」

「一年ぐらい」

「凄いよな、一人で周ってるんだろ? 大変じゃない、何で? やっぱ旅は一人に限る? ハハ」

「俺の場合はね。そうかもね。あんまり協調性が無いから。でも、どこ行ってもツーリストはいるし、本当に一人にはなかなかならないよ。ほら、今だってこうやって話してるし」


 直規は、成る程な、と真顔で頷きながら、もう終わりかけのジョイントを心路に手渡した。心路はそれを指の先で器用に挟んで一気に吸うと、灰皿で揉み消した。


「智は旅してて楽しい?」


 心路が智に訪ねた。


「どうかな……。楽しいんだけど、大変なことの方が多いと思う。やっぱり色々不安だし、自分がしっかりしてないとどうなるか分かんないし、別にどうなったっておかしくない状況はいっぱいあるし……。体だって壊すからね。大変だよ。
 心路達も経験あると思うけど、全然かかったこともないような病気にかかったりすると物凄く不安になるだろ? 特にそれが一人だと、このまま死んでも誰にも発見されないんじゃないかとか、色々考えちゃうんだよ。
 それに、日本のことはいつだって頭にある。ああ、帰りたいなって常に思ってる。楽しめるようになってきたのなんて、本当、最近になってからのことだよ」

「ハハハ、じゃあ、何で旅してるの?」

「何でかな? 知らないものを見るのは刺激はあるよ、やっぱり。
 でも俺は、自分を変えたかったていうのが一番大きいかもしれない。日本にいる時には、旅に出るしかないってずっと思ってた。日本から出たいってずっと思ってた」

「そうか……。俺とか直規君は、ゴアや、パーティっていうのが目的みたいなもんだからなあ……。智とはちょっと違うな。でもそうやって色んなとこ旅するっていうのは面白いんだろうな、やっぱり」


 心路は天井からぶら下がる裸電球をぼんやりと見つめている。それは、微風に吹かれて微かに揺れていた。


「レイヴやパーティっていうのも凄いけどね。俺は、最初、テクノやトランスみたいな音楽には凄く抵抗があって、そんなの行くもんかって思ってたんだけどやっぱり興味はあったみたいで、結局ゴア行って、で、心路達に再会して……。
 一緒にパーティー行っただろ? あの時のことは忘れられないよ。夜のビーチで波の音と大音量のトランスミュージック、銀色の満月。全然ミスマッチなのに何故か違和感をあまり感じない。それどころか、妙な調和のようなものすら感じた。あれは一体何だったんだろう? それまで味わったことのない、不思議な感じ。
 夜がだんだん明けていって、周りで踊ってる奴らが次第にはっきりと見えてくる。砂埃りとともに朝日が昇る。みんな泥まみれで踊ってるだろ。何か凄く、原始的で宗教的なものを感じた。あんな感じは初めてのことだった。そう、何か得体の知れない一体感があったんだ」

「智、凄かったもんな。輪のど真ん中でガンガン踊ってたもん。俺は難しいことは良く分かんないけど、あの場にいるのが好きかな。何か、楽しいと思う」

「あの時は、初めてバツ喰ってパキパキにキマッてたから……。自分でも訳分かってなかったよ」

「でも智はいつもだぜ、ガンガン踊ってるよ」

「それだけ強烈だったってことだよ。俺の中で何かが変わったっていうのもあるかも知れない。テクノっていう音楽に対する偏見みたいなものもあんまり無くなったしね。実際良く聴くようになったよ」

「ハハハ」


 俯きながら心路は軽く笑った。


「智はここに何日ぐらいいる予定?」


 直規が言った。


「そんなに長くはいないと思う。三四日ぐらいかな。まだはっきり決めてるわけじゃないんだけど……」

「そうか……。でもデリー辺りでまた会うんだろうな、きっと」

「ハハハ、多分ね。でもまだ今日会ったばかりなのにもう次に会うときの話し
てるのは、ちょっと気が早すぎない?」

「そうだよな、早すぎるよな、ハハハ」
 



 会話が一旦途切れると、沈黙がしばらく三人を包んだ。夕方になって部屋の中は薄暗く、天井で回っている大きなファンのグォングォンという規則的な音だけが、静かに響きわたっている。大気中には、もうもうと焚かれる蚊取り線香の煙と、粘ついた汗の臭いとが充満し、その中の三人は、まるでそれらに捕われているかのようにぼんやりと何かを見つめ続けていた。
 大麻の煙の残り香は、ゆるやかに三人の嗅覚を刺激して、そのまま天井で回り続けるファンによって静かに撹拌されていた。


 結局そのまま何をすることもなく時間は経った。すっかり夜も更けて、裸電球の薄暗い灯りだけが侘びしく灯っている。


「直規君、そろそろ時間だよ」

「ああ」


 直規は、寝転んだ姿勢のまま、面倒臭そうに返事をした。


「ところでそいつ、幾らって言ってた?」

「確か千ルピーだって……」

「グラム?」

「ああ」

「値切ってみた?」

「一応ね」

「一応ってどういうことだよ、二グラム買うんだからちょっとは安くできるだろ?」

「でも、言い値は千五百だったよ」

「まだいけるよ」

「え?」

「もっと安くなるよ。グラム、千って言ったらヘロイン買える値段だぜ、絶対もっと安くなるよ」

「そっかぁ、まあその辺は直規君に任すよ」


 心路は、ペットボトルの容器で作ったマリファナ用の水パイプをいじりながら話をしている。直規は、その様子を横目で眺めながら、しっかりしてくれよと言わんばかりに、はぁ、と小さく溜め息をついた。


「どう、それ直った?」

「ああ、何とかなりそうだよ。どうしてもここから水が漏れてくるんだけど、ロウを溶かして固めたら、大分良くなった。多分これでいけるよ」


 直規は、納得したように頷くと、智に向かってこう言った。


「智、俺ら凄ぇクサ持ってんだよ、キメてみる?」

「どんなの?」

「アムスのクサだよ。バイオテクノロジーを駆使して作った科学の子だよ。ほら、見てみ、このバッズ、粉だらけだろ?」


 直規は、小さなパケットに入ったそれを指でつまんで軽く振ってみせた。



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