『スティッキーフィンガーズ』

現在連載中のオリジナル長編小説です!不定期更新ですが、『スティッキー・フィンガーズ』こちらより全編を500円でご購入頂けます。何卒よろしくお願い申し上げます。instagram @harauru

2021年8月20日金曜日

政治的な話


※2019/3月下書きより

昨今、政治的な話っていうのは避けられがちなのかなんなのか。

ミュージシャンや芸能人がそういった発言をすると問題になるよね。

日本では、まあ、そんな感じ。

おれはおれで最近は文章といえばツイッターぐらいでもう何年もまともにまとまった文章を書いてない気がするんだけど、さいきん政治とか国家権力とかそんなことについてぼんやりと考えていて、なんとなくようやく長年抱いていた疑問や理不尽が自分の中でまとまってきたみたいなのでちょっと久しぶりにここにまとめてみようかと。

まず初めに権利と義務について。よく権利の前に義務を果たせ、だとかいうけど、結論から言うとそんなのまったく果たす必要はないわけで。憲法で保障されている基本的人権は最低限、無条件で日本国民に与えられている権利。これを行使、主張するのに義務はいらない。

じゃあ、なにしてもいいかっていうとそこが問題で、基本的人権はあっても決して完全な自由があるわけではない。

たとえば日本人、日本国民として生まれたら、日本の法律、条例、その他さまざまな遵法義務が自動的に課せられる。自由があるとすればその限りにおいてのみ。法律や条例などに背いたら、その程度によって法の下、しっかりと罰せられる(ことになっている)。国家権力によって。

そんな厳格な義務を生まれた瞬間から背負わされていて反すれば自動的に罰せられるんだから、国や警察や政治家、はたまた天皇とか、そんなもんに感謝する必要も遠慮しなければならないいわれも何もないわけだ。海外で何かあれば税金使って国民救出するのは国の義務だし、暴漢、強盗がいればそれを制するのは警察の役目。災害があれば復旧作業は自衛隊の仕事。それらに感謝するのは自由だが、過度な謝辞、遠慮はいらん、というわけ。

だから権利主張するのに義務はいらない。果たさなくていい。もしそれが果たさないかん義務だったら警察なりに逮捕や拘束されるだけだから、それに対するリスクは知っておく必要がある、と。まあそんだけのこと。

そんだけのことなんだけどその方法論の行き着く先、たとえば「反社会的」憤慨ないし感情でもって犯した「反社会的」行動に課せられる最大の刑罰に、現在の日本では、死刑、がある。最悪、殺されるわけだ。それも合法的に。国の力によって。

よく「殺人は絶対にダメだ」、っていうけど、本当にそうだろうか。

そんなん当たり前じゃん!!!て憤慨するかもしれんし、おれもまったくその通りだと思うんだけどちょっとまって。それってたとえば、悪人が善人殺す行為、だけに限られるんじゃないの???

殺人=人が人を殺す行為 だとすると、じゃあ今述べた、国が合法的に人を殺す制度である、死刑、はどう???

有名どころでいくと、最近ではオウム真理教の教祖であった麻原彰晃に執行されたけど。まあおれ含めほとんどの人は、あんなやつ死んで当然、であって、「殺人は絶対にダメだ」、ではないよね。すくなくとも心情的な意味においては。

そのとき、殺人=絶対悪、とも言えなくなってくるし、それすらも法律次第、ってことになってくる。現在死刑制度が肯定的に運用されている日本国内においては。

まあ、オウムの麻原なんて極端な例で、誰に聞いてもあんな極悪人死んで当然、で異論は信者以外ほぼないんだろうけど、たとえば親類や恋人殺された復讐劇、とか、なんらかの仇討的な要素の入った殺人とかはどうだろう?それを果たしてたとえ死刑になったとしても英雄的に実行した犯罪者は、麻原とはまったく正反対の支持のされ方をするはずだ。

ただそれは大多数の部外者のテレビドラマ的な観点からの反応であって、当人や関係者は当事者しか知り得ない事情や情報により英雄どころか全く正反対の批判的感情をその実行者にもったり、全く異なった正義でもって憤慨している場合もあるのかもしれない。人と人との関わる全ての事件や問題など必ず多面的な要素や観点があるはずで、絶対に死すべき悪人、なんて誰にも決定できないんではなかろうか。ひょっとしたらあの麻原でさえも。

そんな難しい問題だからこそ、その罪を判断、決定するのに裁判や裁判所があるわけなんだけど、法治国家においては結局その判断を裁判ないし法律や国家権力、政治にゆだねるしかないというだけで、心情レベルでは殺人すら、絶対悪、ではなくなってきてしまう。要は何が言いたいかというと、最初に挙げた「殺人は絶対にダメだ」という説はこの時点で崩壊し、国は法に基づいて殺人を行使する権利を有し、国民においてはその限りではないが、心情的には「してもよい殺人」と「してはいけない殺人」という概念を持つ人というのが少なからず存在することになってくる。くどいが死刑制度のあるこの日本国においては。

まあ死刑制度絶対反対、麻原のような極悪人でも死をもって償わせる必要はない、という聖人のような理性と徳を兼ね備えた人たち、は例外となるんだけど。そういう超人たちのことはいったん置いといて。おれみたいな大多数の凡人について話してる、いま。

うーんでも実際おれも麻原の死刑執行ボタン押せるか、っていったら多分押せないだろうから、本質的には死刑に反対なのかもしれんけど、まあ何にせよ、倫理道徳的な問題を顧みず極刑である死刑ですらも覚悟して殺人を犯す人間は実際いるんだし、おれ自身ももしそういう特異な状況に陥ったら激烈な殺人衝動に捉われるだろうし、そういった思想の下殺人や犯罪を犯し自ら望んで死刑執行された犯罪人も存在する。

なので「殺人は絶対にダメだ」は絶対とはとてもいいきれず、絶対的な正義、倫理、道徳などなく、仮にあったとしてもそれは日本国内で日本の法律に基づいてのみ罰則を伴って有効化されるのであり、個人的な感情や正義の話になると人の数だけそれらは存在するのだから、そんな不確定で曖昧かつ国家的暴力の名の下の「正義」など個人にとっては絶対ではあり得ず、まあ、気にせずに自分のしたいように自由にすればいいんじゃないか、と。そんだけのことなんだけど。

とにかく、日本国民として日本で生きるということは何かしでかしたときに最悪死刑になるということで、政治や国家権力と個人である自分との関係や制約はよくもわるくもそんだけのことであって、そこに倫理道徳善悪正義不正義の入り込む余地はない。

なので、国のために、社会のために、自分が何らかの義務を果たさねばならない、なんて脅迫観念など抱く必要はさらさらなく、まあ、つまんないことで警察につかまらないよう、最悪死刑にならない程度に、享受できる権利は最大限享受しながら楽しくやっていきましょうよ、ってことなのね。単純に。

とまあ、そんなところが現在日本国民であるおれ個人に勝手に課せられている日本国家、政治、国家権力との関係なんだな、と。認識したというか。

うまく説明できてるかどうか分からんけど、おれはそう気づいて色々楽になったというか。へんな束縛から自由になれたというか。あくまでも思想的な意味合いにおいて、だけど。愛国!とか、お国のために!!!とかそんなもんから。日本国に対する遠慮、みたいなもんから。

海外でいろんなこと経験するのとは違った意味で、視野をひろげ自由になることができたので、まあこんな「政治的な話」も時には、大事な人にとっては、大事なのかな、と。