「何だよ、金、無いの?」
「ごめん……」
「マジかよ、どうすんだよ、俺そんなに持ってないぜ。一体幾らあるんだよ?」
「三百」
「三百だって? お前よくそんなんでここへ来たよな。ああ、ちくしょう、俺だって千五百しかないぜ、六百足りねぇよ…どうすんだよ」
「ごめん……」
心路は俯いたまま動かない……。直規は、ハッと思いついたように智の方へ目を向けた。
「智、金持ってないか? 心路のせいで六百足んないんだよ。持ってたら貸してくれよ、きっと明日返すからさ、明日銀行に行けばすぐ返せるんだ」
「ごめん、直規、俺も三百ルピーぐらいしか持ってないんだ……」
智は、そう言いながら、自分の方へ向けられた直規の目に全身の毛が逆立つような思いがした。
それは明らかにいつもの直規の目ではなかった。黒々と見開かれた瞳には、何かに取り憑かれたかのような輝きがあった。それは、ブラウンシュガーの作用によるものなのか、はたまたそれへの執着によるものなのかは、はっきりと分からなかったが、その瞳は、直規の欲求の激しさを十全と物語っていた。
「そうか……、なら、仕方ないよな……」
直規は、独り言のように少し震えながらそう呟くと、シバに向かって言った。
「シバ、何とか二グラムで千八百で駄目か? 金が足りないんだよ」
それを聞いたシバは、顔をしかめながらこう言った。
「今さら何を言うんだ? 三グラム二千四百で話はついたじゃないか。それが限度だよ。もしどうしてもというのなら、最初の値段のグラムあたり千五百ということになる。それ以外は無理だね。それで駄目ならしょうがない、この話は無かったことにしよう。買い手はまだ他にもいるからな。君達だけじゃないんだ」
「ちょっと待ってくれよ、シバ、頼むよ、何とかしてくれ、俺達、今、金が無いんだよ……。あっ、そうだ! 分かった、明日金持ってくるからさ、それでどうだ? 明日になれば金ができるんだ」
直規は、シバに頼み込むようにそう言った。
「いいや、駄目だ。第一、君達が戻って来る保証などどこにも無い。それにこんなものをいつまでも手元に置いておくのはリスクが大きすぎるからね。今君達が買わないんだったら、私は他に持って行く」
その言葉を聞いた直規は、泣き出さんばかりの媚びた表情でシバを見上げた。シバは、静かに光る切れ長の目で直規のその様子を見下ろした。その視線には、どこか蔑んだ、嘲りの感情が込められているようだった。
ずっと彼らのやり取りを横から眺めていた智は、ピリピリとした痺れるような緊張感を味わっていた。
直規と心路の二人は、一体どんな感覚に溺れているのだろう。直規がシバにああも強く頼み込む程のブラウンシュガーというドラッグは、一体どんなものなんだろう? 智の胸の中でそんな思いが止まらなくなっていた。だんだんと、コントロールできなくなり始めていた。恐ろしいような……。惹きつけられるような……。
その時、電光のようにあるアイディアが智の脳裏に閃いた。智は、それをぽつりと呟くようにシバに言った。
「ドルキャッシュでもいいんだろ?」
沈黙していたその場の空気が一瞬緊張した。直規は、ハッと智を見上げた。シバは、少し驚いたように智の方に目をやると、にっこりと笑ってこう答えた。
「もちろんだとも。ノープロブレム。ドルキャッシュなら持っているのかい? それならば問題は何もない」
「智、ドル持ってるのかよ? そうか、その手があったか、ごめんな、智、悪いけど貸して貰うぜ」
直規は興奮してそう言うと、智はそれを制すように言った。
「俺も買うよ」
少し呆然として直規は智を見返した。
「智、マジかよ、無理しなくていいんだぜ、金なら明日返すから無理に買わなくたって。とりあえず今貸しといてくれれば」
「いや、違うんだ、何となく興味が湧いて来たんだ。そしたらふとドルキャッシュ持ってること思い出してさ。だから、気にしなくていいんだ」
「そうか、助かったよ、智、ありがとう」
表情を輝かせながら直規はそう言った。横で項垂れていた心路も、ほっとしたようにその様子を眺めた。
「幾ら払えばいいんだ?」
智はシバに尋ねた。
「そうだな、グラム八百だから三十ドルぐらいかな、まあ、負けて二十五ドルでいいよ」
智は、少し考えてからシバに向かって言った。
「違うだろう? 今、一ドル大体四十ルピーだよ。だから二十ドルだろ? せこい真似すんなよ」
智がそう言うと、シバは、極まり悪そうに微笑んで肩をすくめた。
「ああ、グラムあたり二十ドルでいいよ、どうだ、これで商談成立だろう? 君達みんなが一グラムずつでちょうどいいじゃないか。むしろ三グラムあって良かったぐらいだ。これも何かの巡り合わせだよ。神の思し召しだ。神は、最初から君達が三人で来るのを分かっていらっしゃったのだ。ラッキーだよ、君達は。本当に」
シバは金を受け取ると金額を確かめ、満足そうに微笑んだ。タンクトップは、シバの指示で包みの上のブラウンシュガーの山を三等分すると別々に包み直し、一人ずつ手渡した。直規と心路は、それを大事そうに仕舞い込むとシバとタンクトップを横目でちらと見て立ち上がり、危なっかしい足取りでふらつきながら部屋の外へ出た。智は、冷静にその様子を眺めながら彼らに続いた。部屋を出る時シバが、気を付けてな、マイフレンド、と声をかけてきたが誰も返事をしなかった。
外へ出て、智は、自分の手の中にブラウンシュガーの包まれた白い紙包みがしっかりと握られているのを改めて確認した。気が付くと、その手は少し汗ばんでいた。
三人は、ゆっくりと夜のプシュカルの町を歩いている。ヒンドゥー教にとって聖なるこの町は、やはりそれなりの聖地の匂いのようなものを放っている。霊的な雰囲気を醸しだしている。
それは、例えばサドゥーと呼ばれる髪も髭も伸ばし放題の修行僧が町のあちこちに見受けられるからなのかも知れないし、直規達が泊まっているゲストハウスの近くにある湖に面した沐浴場で、朝日や夕日に向かって祈りを捧げる人達を日常的に垣間みることができるからなのかも知れない。
やはり聖地と呼ばれる所にはそれなりに熱心な信者達が集まって来るので、何となくそれらの光景が心のどこかに引っかかっていて、知らない間に「聖地」というイメージが形づくられていくのだろう。プシュカルという町はそんな町のひとつだった。
その、聖地プシュカルの町を、直規と心路はふらつきながら歩いていく。ブラウンシュガーの効き目がだんだん強くなってきたらしく、もう、二人とも目の焦点が定まっていない。智の方を向いても、果たしてどこを見ているのか良く分からないぐらいだ。智は、少し心配になって直規に尋ねた。
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