『スティッキーフィンガーズ』

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2012年9月16日日曜日



「大丈夫?」


 直規は、低く呻き声を上げながら智の方を振り返った。


「ああ、大丈夫だよ……、でも、これ、凄いわ、本当に……」


 と言った途端、直規は、路地の片隅に倒れ込むように駆け寄って壁に手をついて嘔吐した。喉元から込み上げてくるような苦しげな声を発しながら吐いている。その様子を見ていた心路も、ああ、俺も、と、ふらつきながら倒れ込むように道端で吐いた。

 静かな夜のプシュカルの町に、二人が反吐を吐く音だけが響いている。智は、大丈夫? と聞くよりほか、何もしようがなかった。薄暗いオレンジ色の電灯の灯る中、反吐を吐く二人の姿だけがぼんやりと浮かび上がっている。インドの路地の持つ独特の臭気が、闇の中、悶え苦しむ二人を包み込んでいた。その光景は、現実のものでも非現実のものでもなく、目の前に張り付けられた平面的な写真のように、ただ、智の眼前に広がっていた。

 ここはインドであるという疑いようのない事実、そしてそこで三人の日本人が日本語で会話しているという事実、更にドラッグで酩酊し、道端で嘔吐しているという事実、そのどれもが目の前で起きているまぎれもない事実に違いないのだが、智は、それらをどうしても現実のものとして捉えることができなかった。それは、夢を見ているようでもあった。どこか浮ついた現実だった。智は、そんな曖昧な心持ちで目の前で繰り広げられている「現実」を眺め続けた。


 部屋に帰ると、智は、ベッドに腰掛けて紙包みを広げた。そこには、確かに茶色い粉が包みこまれていた。先程の直規と心路の様子を思い出す。反吐を吐きながらも恍惚とした表情で快感に溺れている二人。一体彼らは、空ろな目で何を見ていたんだろう。ふらつきながら、どんな世界を歩いていたのか。ちょっと想像がつかなかった。

 ゾクゾクするような感覚を智は全身に感じていた。とても恐ろしいのだが、それ以上に惹きつけられている自分が恐かった。

 それが目の前にある。彼らのいたその世界へと続く階段は、智の前に施錠されずに開放されている。一人っきりで自由にできる。制約の無い自由というのは、恐怖に似ている。抑制を失った欲求は、自分をどんな世界に引きずり込むとも知れない。糸の切れた凧のように無限の大空へと解き放たれていくような恐ろしさ、果てしなく広がる底の見えない海の中に沈んでいくような怖さ、そんなのと似ている。

 智は、ハッと我に返って紙包みを丁寧に包み直すと、天井の板をずらしてそこへ隠した。そしてベッドに横になって、今日直規と心路に再会してから今までのことをゆっくりと思い返した。

 直規達の部屋でマリファナを吸ったこと、クリシュナ・ゲストハウスのシバやタンクトップのこと、初めて見るドラッグ、ブラウンシュガー、そしてそれに酔った人達、まだうっすらとマリファナの作用の残った頭で取り留めもなくそんなことを思い返した。

 しかし、それら全体の実像はまるではっきりとしなかった。それらの現象に何らかの必然性や意味を求めようとするのだが、その途端智の手からすり抜けて、曖昧で混沌とした闇の世界へと紛れ込んでしまう。映像はぼやけ、記憶は曖昧になっていく。イメージはどんどん混乱していく。

 運命は、様々な現象を雑然と智の前に繰り広げたまま、何ごとも語りかけない。智は、繋げることのできないパズルのパーツのようなそれらの現象の一つ一つを、何とか繋げようと必死に努力していた……。



 砂漠地帯の朝は眩しく乾燥している。日中の倒れるぐらいの日差しと暑さはまだ息をひそめており、真っ青な濃い空と眩しい光だけが町を覆っている。土地の人々は、そんな気候を良く知っていて、清々しい朝を最高の気分で迎えられるように町を造っている。建物を立てている。

 智の泊まっているゲストハウスは、二階建てで、小さな中庭のある小じんまりとした建物だった。土壁のような物で造られている外壁は、漆喰で塗ったように白く、砂漠の朝の透明な光を全身で跳ね返している。建物の屋上を歩くと、朝の日光で熱せられた地面が素足に心地良い。白い建物と濃い青空のコントラストがとても眩しい。

 プシュカルの町の全景をそこから見渡しながら、智は深く息を吸った。まだ太陽に熱せられる前の冷ややかな空気が体内を冷却する。静かな、落ち着いた気分になる。智は、両腕を広げて日光を全身に浴びた。


 部屋に戻ると、外の明るさの余韻で室内が少し暗く感じられる。そのせいで周りの景色がとてもクリアに見える。智は、おもむろにベッドの上に立ち上がって、天井裏に手を伸ばした。紙包みは確かにそこにあった。ベッドの上に座り直し、ゆっくりとそれを広げる。茶色い粉は円形に盛られている。智は、耳かきを取り出してその粉を少しすくうと、手鏡の上にそれを乗せた。もう、やると決めていた。心臓の鼓動が速くなっていくのが分かる。直規に貰った剃刀の刃で、その粉を細かく刻んだ。更にその砕いた粉で細く一本の筋を引いた。インドルピー札をくるくると筒状に丸め、片鼻にあてがって鏡の上に屈み込む。

 智は、今、そんな自分に酔っていた。今の自分の状況を、映画や小説のワンシーンになぞらえて、それら一連の行為を楽しんだ。そして一息ついて軽く目を閉じると、鏡の上の一本の筋を、なぞるようにゆっくりと吸い込んでいく。鼻の粘膜を粉が刺激する。粉は、溶けて、じわじわと智の体内へ入り込んでいく。血管を通って巡った血液が、脳内へとその成分を運搬する。それは、瞬間的に智の脳細胞を刺激した。一瞬景色が歪み、眩暈のようなものを感じると、智は、倒れ込むようにベッドの上に横になった。

 ぐるぐると回る天井のファンが智の視界を占領した。白い壁に白いファンがゆっくりと回っている。そしてその音が、エコーのように拡張されて智の聴覚を刺激する。智の感覚は、ほぼ全部、天井で回るファンによって埋め尽くされていた。今の智の世界には、それ以外の情報が入り込んでくる余地は全くない。しかし、頭の芯だけは妙に冴え渡っており、冷静さは保たれている。

 次第に体が重くなる。音がシャープに入り込んでくる。体がだんだん沈んでいく。ベッドは弾力性を失い、そのまま智を深く呑み込んでいく。そしてそれとは対照的に、意識は徐々に覚醒し、精神だけが軽く浮遊しているような感覚を、智は、今、味わっていた。

 朝の光が白い壁に反射して、部屋中を柔かな白色が包み込む。乾燥した冷たい空気が微かに肌を撫でていく。智は、知らない間に自分が少し微笑んでいることに気が付いた。ああ、この感覚をもっと味わいたい、もっともっと味わいたい、智はそう思った。心が軽くなり、あらゆる不安は解消された。ただこうして横たわってさえいれば幸せだった。何もいらない。怒りも悲しみもなく、ただ、穏やかな風に吹かれているような感覚で満たされていた。目を閉じ、そこに見える風景さえ見ていれば、そこから聞こえてくる音楽さえ聴いていれば、もうそれだけで十分だった。想像力が全てを支配していた。智は、神を意識した。神の国というものがもしあれば、実際もし本当にあるとするならば、そこに住む人々は、きっとこんな心持ちで生活していることだろう、優しく微笑みながら争いも無く、憎しみも無く、平和な世界で穏やかに生活していることだろう、智はそんな風に思った。

 ゆっくりとした呼吸で、取り留めもなく、そんなことをずっと考え続けていた。砂漠の朝日の輝く中、白い部屋で、ベッドの上に横たわって、天井で回るファンを、ただぼんやりと眺め続けていた。気が付くと、智は涙を流していた……。





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