『スティッキーフィンガーズ』

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2011年11月1日火曜日

のーふゅーちゃー in '69




「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」という若松孝二監督の映画を、たまたま観た。 

途中からだけど。 

あさま山荘事件てのは有名で、当然僕も知っていて、それに関する本や映画もいくつかみたことはあったのだが、どうやらちょっと勘違いしていたようだ。 

山荘に閉じこもって機動隊とやりあった有名なシーンというのは実はこの事件の最終局面で、むしろ凄惨で残酷なのはそこに至る何ヶ月かの山小屋での閉鎖的状況での軍事訓練を兼ねた共同生活。 

この映画では題名通り、その道程が詳しく描かれていた。 

「総括」と「自己批判」の名の下にエスカレートしていく私刑、集団暴力。 

誰もが違和感を感じているのに操られ、そこから抜け出せない共同幻想。 

警察から追われる恐怖、や、仲間内での不信感、焦り、色んな物がないまぜになってその幻想はふくらみ、どんどんどんどん暴走していく。 

何だかそんなひょっとしたら今までの人生、学校生活や社会生活において味わったことのあるような、そんなひしひしとした身近な恐怖がじりじりと伝わってきて、ちょっとどきどきしてしまった。 

非常に陰惨で残虐。簡単に人というか、仲間が殺されていく。 



そんなに昔のことじゃない。自分の親ぐらいの年代だ。自分の親が若いとき、日本ではそんなことが同時におこっていたのだ。 



革命、革命、というけれど、彼らは一体、何をしたかったのだろう。 



どうしてチェ・ゲバラやフィデル・カストロのように、共産主義革命を達成できなかったのだろう。 



どうして葉巻をくわえた軍服のゲバラはあんなに知的でかっこいいのに、地味な服装をした化粧気のない永田洋子はあんなにもブスで、森恒夫はとうてい革命家とは思えないほど知性の欠落したヒステリックな芋みたいな表情をしているのか。 



よくわからないが、何だか上のグロテスクな絵が、その本質を全て表現しているようで、思わず貼ってしまいました。 



でも、こんなことは多かれ少なかれ日本という村社会の中で、起こっている気がする。 
僕が感じた身近な恐怖とは、いわゆるそういうことだろう。 
集団の中で孤立することのできない日本人。 
正しいことを言う、勇気。 

果たして僕があの場所にいたならば、意義を唱えられたろうか。 

いや、絶対に無理だな。 

そして、順番に回ってくる死を、ひたすら怯えながら、ふるえて逃亡の機会をうかがい続けていたことだろう。 



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